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 ここ白狐ヶ丘は弥生中後期の住居遺跡で欠山式土器の発掘地として知られており五社稲荷社は明暦年間(1656年頃)にこの遺跡の中央前方部大古墳上にこの古墳の尊厳を守り五穀豊穣を祈るため「保食神(うけもちのかみ)」を斎祀したのが始まりと伝えられております。
百年ほど後の延享四年(1747年)御本殿の造替の棟札には「稲荷五社 大明神」とあり、その以前より五柱の神々を斎祀したものと推測されますが、古文書から見ますと伏見稲荷大社から文政十三年二月(1830年)正式勧請し五社稲荷社と称され今日に至っております。
当時の神社の様子は「参河国名所図絵」に画かれており境内は今の様子とほぼ同じことがうかがえます。


又ここの古墳は前方後円墳と云われております。
周辺部が損壊されているので確認は困難ですが東三河地方第一の規模を持つもので造成期は五世紀末から六世紀初めと伝えられ当古墳の西方200米に鎮座する白凰十五年(686年)創建の古社菟足神社の御祭神である大和葛城の豪族葛城襲津彦命(かつらぎのそつひ このみこと)の裔、菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)の墳墓と推測されています。 この命、第二十一代雄略天皇の朝「穂の国」の国造として当地に派遣されその治績高く治民の功大なるものがありました。


・宇賀之御魂神(うかのみたまのかみ)
・宇迦之売神(うかのめのかみ)
・稚産霊神(わくむすびのかみ)
・大宮能売神(おおみやのめのかみ)
・屋船神(やふねのかみ)

 五柱の御祭神を総称して五社稲荷社の大神また稲荷五社大明神と申しあげ五穀豊穣、商売繁盛、 産業興隆、家内安全、家・屋敷安泰、交通安全、知徳健康等の守護神と崇敬せられその御神徳極めて高いものがあります。